さてろぐ

子どもと過ごす日々を綴っています。

断捨離の目的地が明確になりました、吉田兼好の徒然草より。

断捨離してスッキリしたい、家の中を片づけて気持ち良く暮らしたいと、せっせと断捨離に勤しんでいる(ような気がする)のに、片づけが停滞しています。

 

断捨離の目的を見極める

私は超気分屋なので、よく停滞します。

これは目的が明確じゃないからかもと最近思うようになりました。片づけてどうなりたいのか、不要品を処分してどうなりたいのか。

ただ、スッキリしたい~気持ち良く暮らしたい~では抽象的すぎて、すぐに気持ちが萎えるのかもしれません。

目的がぼや~としているので、どれだけ処分したらスッキリするのか、どこまで片づけたらいいのかがあやふやなのかもね、と考えているとき「徒然草」の現代語訳サイトを見つけました。

tsurezuregusa.com

「つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて‥」中学生のころ暗記しましたよね。

この「徒然草」の中に私の断捨離の目的地がバーンと描かれていたので、ご紹介します。

第百八段 寸陰惜しむ人なし

 一瞬の時間を「勿体ない」と思う人はいない。「一瞬を惜しむことすら意味がないことだ」と悟りきっているからだろうか。それとも単に馬鹿なだけだろうか。馬鹿で、時間を浪費している人のために敢えて言おう。一円玉はアルミニウムだが、積もって山となれば貧乏人を富豪にする。だから商人はケチなのだ。瞬間を感じるのは困難であるが、瞬間の連続の果てには、命の終焉があり、あっという間に訪れる。瞬間を感じるのは困難であるが、瞬間の連続の果てには、命の終焉があり、あっという間に訪れる。

だから修行者は長い単位で月日を惜しんでいる場合ではない。この瞬間が枯れ葉のように飛び去ることを惜しみなさい。もし、死神がやってきて「お前の命は明日終わる。残念だったな」と宣告したら、今日という日が終わるまで、自分が何を求め、何を思うか考えよう。今、生きている今日が、人生最後の日ではないという保証はない。

その貴重な一日は、食事、排泄、昼寝、会話、移動と退っ引きならない理由で浪費されるのだ。

残ったわずかな時間を、無意味に行動し、無意味に語り、無意味に妄想して、無駄に過ごし、そのまま一日を消し去り、ひと月を貫通し、一生を使い切ったとすれば、それは、阿呆の一生でしかない。

中国の詩人、謝霊運は、法華経の翻訳を速記するほどの人物だったが、いつでも心の空に雲を浮かべて詩ばかり書いていたから、師匠の恵遠は仲間達と念仏を唱えることを許さなかった。時間を無駄にして浮かれているのなら、何ら死体と変わらない。

なぜ瞬間を惜しむのかと言えば、心の迷いを捨て、世間との軋轢がない状況で、何もしたくない人は何もせず、修行したい人は修行を続けるという境地に達するためだ。

引用:「徒然草」より(吉田兼好著・吾妻利秋訳)

ガツンときました。まさに時間は永遠にあるかのごとく、貴重な一日を無駄に過ごしていたように思います。1年ももう半分過ぎたと驚き、残りの半分も同じように過ごす。その繰り返しです。

第百八十八段 或者、子を法師になして 

一生のうちにすべきことを見つけ、よく考え、一番大切だと思うことを決め、他は全部捨ててしまおう。一つに没頭するのだ。

一日、一時間の間に、仕事はいくらでも増えてくる。少しでも役立ちそうなものにだけ手を付けて、他は捨てるしかない。大事なことだけ急いでやるに越したことはない。どれもこれもと溜め込めば、八方塞がりになるだけだ。

引用:「徒然草」より(吉田兼好著・吾妻利秋訳)

これは、先日記事に書いた綾小路きみまろさんの生き様にも通じるものがあると思います。きみまろさんは、漫才ブームの中コンビを組むこともせず、充分な収入源だった司会者の職も捨て漫談家を目指しました。

つくづく決めることが大切なんだなぁと思いました。目的地を決めなければ、どこに向かえばいいのか分からない。 

第百二十三段 無益のことをなして時を移すを

無駄な時間を過ごすのは、馬鹿者とか勘違い人間と言うに値する。国のため、経営者のためと、やりたくない事をやる羽目になる時は結構ある。その結果として、自分の時間は情けないほど少なくなる。

よく考えてみれば、人として生きていくために必要な事と言えば、一つ目は、食べ物、二つ目は、衣服、三つ目に住居ぐらいである。世間で大切と思われている事は、この三つ以外クソと同じだ。

餓死せず、凍死せず、雨風しのいで、静かに過ごせるならそれで良いではないか。

しかし、人間は誰でも病気になる。病に冒されると苦しくて仕方がない。そこで医療も忘れるわけにはいかない。衣食住に薬を加えて、四つのことがままならないのを貧乏という。四つが何とかなれば裕福という。四つ以外の物欲を満たすのを強欲という。

この四つ、爪に火を灯して生きていけば、誰だって「満たされない」などと思うだろうか?

引用:「徒然草」より(吉田兼好著・吾妻利秋訳)

私の断捨離の目的地はここだと思いました。生きていくことができるだけの衣食住。その衣食住はすでにここにあります。生きていくだけには過剰すぎるかもしれません。

これからの断捨離の基準が明確になりました。基準は、自分が生きていけるかどうか。なくても生きていけるものは処分して、ないと生きていけないものは残す。

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自分を不老不死だと思っていると、先が長いのでいつか使いそうだわとなりますが、もっと短いスパンで考える、例えばこの先1年間生きていくのに支障はないかを判断すれば、迷いはなくなるような気がします。

そして、人生ですべきことをするために他のことは捨てる。あれもこれもはできません。私のすべきことはここにあるような気がします。

餓死せず、凍死せず、雨風しのいで、静かに過ごせるならそれで良いではないか。

ここで穏やかな日常を過ごす、ことに安心します。大志を抱けとは真逆ですが、44歳になってやっと自分の本質を認められたのかもしれません。これも、彷徨いながらも断捨離を続けてきたおかげだと思います。